ろ 聾。

私を形成する全てのモノの中で、外すことの出来ないひとつが、 弟の存在。
私の弟は、耳が聞こえません。生まれつきの聾者です。

弟は私が4歳の時に生まれ、
それから1年ほど経った頃に「聴覚障害」とわかりました。
子守歌も届かない音のない世界で、弟は、
自らの拳をおでこにぶつけてリズムを取って、眠りについていました。
その頃、幼稚園生だった私は、
七夕に「弟の耳が良くなりますように」と短冊に願いを込めて祈りました。
だけど弟の耳は一生、良くなることはないのでした。

誰かに「私の弟は耳が聞こえない」という話をする。
次の言葉は必ず「え?じゃあ手話出来るの?」という言葉。
私は、“あぁまたか”と思いながら「いや。手話は出来ないよ」と言います。
そうすると今度は「じゃあどうやって会話するの?」と返ってきます。

私が声を大にして言いたいこと。
耳が聞こえなくても、しゃべれるんです。
手話が出来なくても、聾者と会話は出来るんです。

耳が聞こえない=しゃべれない
そう思っている人が、あまりにも多すぎる。

耳が聞こえないことと、言葉を発音することは、全くの別物です。
実際耳が聞こえない方でも、
健聴者と区別つかないほど発音がきれいな方もいるんです。
聾者は、人の唇の動きを読み取ることが出来ます。

「た」と発音する時の、舌が上顎に付く感じ。
「ま」と発音する時の、上唇と下唇がくっつく感じ。
「ら」と発音する時の、舌を少しだけ巻く感じ。
そういった特徴を頼りに、聾者は唇を読んでいます(読話又は読唇術といいます)。

もし、聾者と会話をする機会があったら、
“あ、この人耳が聞こえないんだ”と思って、
しゃべるのをやめてしまうのではなくて、勇気を出して会話をして欲しい。
その際、母音(つまり、あいうえお)をだけを強調するのではなく、
普段しゃべっているのと同じように、
ただ少しだけゆっくりしゃべってあげて欲しいのです。


聾者に限らず障害を持った方たちは、
特別な「優しさ」を持っていると、私は思っています。
それは、五体満足で何不自由なく生きてきた私たちには、得ることの出来ないもの。
体のどこかに不自由を抱えながら、
乗り越えてきた困難や苦労や葛藤と努力が、培う「優しさ」。

弟も、義妹も、弟の友達も皆、とても澄んだ瞳をしています。
それを私は、尊敬に値する素晴らしいことだと思っています。

日本はまだまだ、施設のバリアフリーだけでなく、
人と人とのバリアフリーもなされていない国です。
せめて私の周りの方々には、 もっともっと聾者のことを知って欲しい。
もっともっと伝えていきたい。
それが「家族に聾者を持った」私の使命だと思っています。

皮肉にも、音楽に携わっているこんな姉を認めてくれる、弟。
私は聾者である弟を、誇りに思っています。